笛作り三十年

第1回

音楽を愛し、音楽を純粋に楽しむ人のために笛を作る。

 少年の頃から続けてきた絵の勉強を中断しなければならない時が来た。それは、鉄砲をかつぐ生活が近づいてきたのだ。これを避ける為に軍楽隊志望を思い付いた。一ヶ年の生徒活動の後は、通勤になるので、少しは絵も描けるだろうし、音楽が絵の上にプラスになるとも考えたから−−。幸い知人の中に戸山学校でフリュートを吹いている江木氏が居た。そこで、戸山学校へ入校、音楽と交渉をもつ生活が始まった。大正六年、十九歳の秋。

 当時私は、野球をやって右手の小指を折っていたので、取り敢ず三本の指で間に合うコルネットを吹くことにした。ところが実のところ入校七日目に先輩の合奏音楽を聴いて、音楽をやることがいやになって了った。私はそれまで鉛筆一本で猫の仔をスケッチしたとしてもそれは私の創作であり私の生み出したものであったのに、演奏家の仕事は、作曲家の創作を代弁するに過ぎないと考えた。勿論作曲が演奏されて初めて音楽なのだから、音楽を聴く場合、充分演奏家に敬意と感謝を払うけれど、演奏家が芸術創作者でないことは否めないので、自分が生涯の仕事とするには満たされないものを感じた。私は音楽を愛し、音楽を純粋の楽しむ人のために多くの楽器を作って贈ろうと考えた。私の力に依って一人の人の人生を楽しく、数十人の人を楽しくさせることが出来たら、それは私が芸術に志した目的に一致する。その中から素晴らしい演奏をする人も現れることだろう。絵を捨ててもいいと考えた。

−−その後三十年、なお絵を描く時間のある生活を恋慕っては居るけれど−−この目的は、大それた考え方のようであった。何故なら、私には工業的予備知識と訓練の持ち合わせが何もなかったから−−。
 それから学校内の楽器の研究を始めた。破損楽器を片端から修理してみた。当時の楽長春日氏は、私に特別な理解を以って協力してくれたことを今でも忘れることが出来ない。戸山学校生活中、私の絵の為に一室を与えてくれ、展覧会出品の制作をさせてくれたのも春日氏であった。

 奉職中の私の仕事は、一日二時間、受持生徒の教育に当たり、年二回、全国からラッパ手を集めて基本訓練をやる役を引き受け、合奏は、管でトランペットB♭とE♭、管弦ではホルンを担当した。其の他学校本部で考案した体操を出版する時の絵を描き、年一度のオペラ演出には十数枚の背景を私一人で描いた。別に毎日軍隊内で三味線を弾きまくったのは、軍楽隊八十年間に私一人であったろう。野球部では捕手をやり、二ヶ年を外地に派遣された。

 余計なことを多く書き過ぎたようだけれど、この生活が私に笛作りの希望をもたせ、基礎を与えたものなので、これでも極く簡単に記したつもりだ。大正十二年春、無鉄砲にも戸山学校を飛び出して、笛作りに突入した。