そして、「世界のムラマツ」へ

村松孝一が築いた礎を受け継いだ、わたしたちの現在です。

そして、「世界のムラマツ」へ

 大正十二年(1923)、一人の男の手により、日本ではじめてのフルートが誕生してから八十数年が経ち、今や日本国内はもとより、世界各国でムラマツ・フルートが吹かれている。その中には、ベルリン・フィルハーモニー、ウィーン・フィルハーモニー、ミラノ・スカラ座、パリ管弦楽団など世界屈指の名門オーケストラに所属するトップ・プレイヤーたちも含まれている。

 村松孝一が笛作りを始めた当時、本人を始めとして誰がこのような未来を想像できたであろう−−。

 音楽は、国によって、例えば、ドイツにはドイツ独自のスタイルが、ウィーンにはウィーンのスタイルがあるように、楽器にもその音楽スタイルによって、作り方や音色に大きな特色がある。西洋音楽の分野では歴史の浅い日本。ヨーロッパ人から見れば、日本製フルートは東洋のちっぽけな島国で作られている価値の定まらぬ楽器にすぎなかったはずである。それが今日では世界中で求められている。これには数多くのフルーティストによる協力があったことを忘れてはならない。吉田雅夫、林りり子、マルセル・モイーズ、ジュリアス・ベーカー、ジャン=ピエール・ランパル、オーレル・ニコレ……。

 村松孝一が他界してから、師匠を失った弟子たちはプロ・フルーティストたちに教えを乞おうと、数多くの笛吹きに手紙を出した。しかし、誰からも何の音沙汰もなかった。やがて、ただ一人、当時日本フルート界の最高権威であった吉田雅夫氏から話をしても良いと返事が届く。吉田氏は「音楽を表現するとき何ら抵抗感のない、例えば靴のように体に合った楽器が良い」「製作者は楽器が吹けた方が良い。なぜなら『こもる』『暗い』『明るい』『立ち上がりが良い』『反応が早い』『説得力がある』などのことばを理解することができるからだ」と多くを語った。また、ドイツ製とフランス製のフルートを見せながら、「君たちが研究するのなら、いつでも相談に乗るし、楽器も貸してあげよう」と言い、楽器は形のみを作るのではなく、いろいろな要素が必要だということを自身が他界するまでの数十年に亘って教え続けた。こういった長い吉田氏との交わりによって得られた数多くの成果のひとつに『日本初フレンチ・モデルの誕生』がある。
 現在ではほぼ毎日のように日本のどこかで開かれる『フルート・リサイタル』であるが、それは、まだ「笛一本でリサイタルを開くとは…」と笑われるような時代の日本で初めてフルート・リサイタルを開催したフルーティスト、ジュリアス・ベーカー氏の功績である。

 村松フルート二代目社長・故 村松 治を始めとするスタッフは、ベーカー氏のリサイタルを成功させようと、ベーカー氏との打合せから始まり、伴奏の手配、チケット販売、練習場所探しに至るまで、何しろ初めての試みに東奔西走し、やがて迎えた本番当日にはほぼ満員の聴衆を迎える大成功となった。ベーカー氏は来日中、ほぼ毎日のようにムラマツの工員たちに会い、楽器について、「ヤスリやロウ付けの細工は良いが、楽器としての雰囲気がない。これでは音は出ても、フルートの音は出ないよ」とさんざん酷評しながら、うるさいほどの指導を行った。ベーカー氏の熱心さは大変なもので、部品の一つ一つから頭部管の絞り方、世界の音楽界の話などをしてくれた。その甲斐あって、ベーカー氏の帰国までに彼の希望するようなフルートが完成し、帰国後彼はそのフルートを持ってアメリカ、ヨーロッパを周り、ランパル、ニコレ、デボスト、ツェラー等々、世界中のプレイヤーがムラマツ・フルートを知ることとなった。ベーカー氏の教えはもちろん笛作りだけでなく、本業である演奏技術面でも日本のフルート界に与えた影響は大きく、レベル向上に寄与した。

 ニコレ氏は、初来日リサイタルの際、それ以前に注文していた金製フルートの仕上りを見るために工場を訪問した。新しい笛を手にして、音の響き、スタッカート、レガート、アルペジオなど、いろいろな方法でテストをした。また当時は洋白製フルートを吹いていたニコレ氏は、金製フルートを来日中に完全に自分のものにしたいと要望し、様々な曲を吹きながら、自分の求める音、響き、表現力などを説明した。また工場スタッフたちに合奏をしようと申し出、聞いただけでは理解できない、音程の取り方、抑揚、音の発展性など音楽と楽器との関係について多岐にわたって教えた。

 彼ら偉大なフルーティストたちからの多大な協力を得ながら、これまでに、ピッチ、スケール、テーパー、メカニズム等の改良を加えた、幾度とないモデルチェンジを経ながら、「フルートとは何か」を創業以来問い続けてきた。現在も日々研究と実験の試行錯誤を繰り返し、より良い笛作りを目指して作業を続けている。『ハンドメイド』の基本は決して忘れることなく、手作業品質を凌駕可能な部分には最新機器をバランス良く導入し、ベーカーが語った『楽器としての統一感』、ニコレの言う『音の色彩、イントネーション』、ランパルから聞いた『音の立ち上がり』、モイーズによる『音の命』……、プレイヤーたちとの交流を経て繰り返される研究と改良は現在に至るまで連綿と受け継がれ、決してとどまる事はない。

そして今日、ムラマツが製作するEXモデルから24K、プラチナにいたるすべてのラインナップが同じ工程を経た同じ機構を持つ『ハンドメイド・モデル』として、年間総生産数約五千本余りが日本の所沢で日々生み出され、世界へ届けられている。

さらに販売、サービス部門に於いては、フルートに関するあらゆるサービスを提供している。年間約一万本以上持ち込まれる修理楽器への対応をはじめ、世界最大規模のフルート・レパートリーを誇る楽譜やCDの所有等々、内外のプロや愛好家たちの演奏活動を支え、より良い環境づくりに力を注いでいる。

 これらのフルート製作とその品質の向上、そして、フルートに関するあらゆるサービスとその充実といった全事業によって、「世界のムラマツ」と呼ばれるようになった今日も、「ムラマツへ行けば何でも解決できる」ことを目指し、「音楽を愛し、音楽を純粋に楽しむ人のために多くの楽器を作って贈ろうと考え」た、創始者、村松孝一のフルートとフルート吹きへの深い愛情をすべての礎として、フルート界と音楽文化の発展に寄与するべく、ムラマツは、更なる高みを目指してひたむきに日々邁進し続けている。
弊社発行「村松孝一 没後50年 メモリアル 礎(ISHIZUE)」より