村松孝一 経歴

日本のフルート製作のパイオニアであり、
ムラマツフルート創始者の村松孝一の経歴です。
  • 村松孝一
  • 村松孝一(1898-1960)

    日本のフルート製作パイオニアであり、ムラマツフルート創始者。
    「世界に通用する日本のフルート」の礎を築いた。

      幼少時、画家を志す。
    1917年 陸軍戸山学校に入隊しコルネットを担当。やがて演奏者としては満足できず、楽器製作の道を考え始め、軍楽隊の楽器全ての修理を手がける。
    1923年 除隊。フルート製作を開始。当時日本のフルート人口はプロ・アマ併せて20名ほどで、フルートのみで生計を立てることは不可能だった。映画館の伴奏楽師を務めたり、ペンキ看板を描く等で報酬を得ながら、フルート製作を行う。
    1924年 日本製フルート第一号が完成。製作時間に一千時間を費やす。
    1931年 日本交響楽協会サックス奏者・津田 功が村松に製作を依頼したのが2本目。初期の材質は真鍮または洋白を用いていたが、1932年頃吉田雅夫の依頼により、初めて銀製で頭部管を作製。
    1937年 ニッカン(日本管楽器製造株式会社)からフルートの製作依頼を受けて協力を開始。
    1940年 全工員合わせて約10名で、ひと月に70〜80本を作製。
      1943年以降、金属統制令下、手持ちの材料で製作を続ける。
    1951年 工員を増やし、規模を拡大。
    1956年 製作本数一万本を達成。
    ハンス・レズニチェック氏(ウィーン・フィル首席フルーティスト・当時)等を招き上野精養軒にて記念パーティーを催した。マスコミにも大きく取り上げられる。
    1960年 ピッコロ製作の作業中、クモ膜下出血により死去。享年62歳。
  • 村松孝一、吉田雅夫氏、ハンス・レズニチェック氏 左から村松孝一、吉田雅夫氏(中央奥)、ハンス・レズニチェック氏
  • 製作本数1万本記念パーティー。村松孝一・はな夫妻 製作本数1万本記念パーティー。村松孝一・はな夫妻(中央)