幼少時、画家を志す。 | |
1917年 | 陸軍戸山学校に入隊しコルネットを担当。やがて演奏者としては満足できず、楽器製作の道を考え始め、軍楽隊の楽器全ての修理を手がける。 |
1923年 | 除隊。フルート製作を開始。当時日本のフルート人口はプロ・アマ併せて20名ほどで、フルートのみで生計を立てることは不可能だった。映画館の伴奏楽師を務めたり、ペンキ看板を描く等で報酬を得ながら、フルート製作を行う。 |
1924年 | 日本製フルート第一号が完成。製作時間に一千時間を費やす。 |
1931年 | 日本交響楽協会サックス奏者・津田 功が村松に製作を依頼したのが2本目。初期の材質は真鍮または洋白を用いていたが、1932年頃吉田雅夫の依頼により、初めて銀製で頭部管を作製。 |
1937年 | ニッカン(日本管楽器製造株式会社)からフルートの製作依頼を受けて協力を開始。 |
1940年 | 全工員合わせて約10名で、ひと月に70〜80本を作製。 |
1943年以降、金属統制令下、手持ちの材料で製作を続ける。 | |
1951年 | 工員を増やし、規模を拡大。 |
1956年 | 製作本数一万本を達成。 ハンス・レズニチェック氏(ウィーン・フィル首席フルーティスト・当時)等を招き上野精養軒にて記念パーティーを催した。マスコミにも大きく取り上げられる。 |
1960年 | ピッコロ製作の作業中、クモ膜下出血により死去。享年62歳。 |