フルート作りにささげた一生

比田井 洵氏による、村松孝一を偲んで執筆されたものです。

1960年、村松孝一没後に、日本フルートクラブ創始者・故 比田井 洵氏が、村松を偲んで日本経済新聞に執筆した「フルート作りにささげた一生」を転載させていただきます。

フルート作りにささげた一生

「雷おやじ」村松孝一氏をしのぶ − 比田井 洵(ひだい まこと)

 フルート作りの巨匠であり、笛吹きの会のスポンサーであり、私の親しい友人であった雷おやじの村松孝一氏が亡くなった。
 六月六日の朝、「お父さんが死んだ」との電話、「どうして」という以外声も出ない。数日前に元気な彼と会ったばかりである。昨年、いっしょに関西旅行をして肝胆相照らして以来、特にしたしくなっていただけにまことに痛惜の情に耐えられない。

 村松氏と私とは、いちばん初め、そのころの先生(岡村雅雄氏)の紹介状を持って、恐る恐るペコペコしながら(先生から『ハイさよう、ごもっともといって、ペコペコして居なさい。村松はおこると気狂いみたいにこわい人です』といわれたため)フルートを作ってもらいに行って以来、二十年近い付き合いである。知り合ってすぐに非常に親しくなった。どうしてこんないいおじさんを先生は恐ろしい人だなんていわれたのかふしぎに思っていた。知り合ってから五年目ぐらいだったろうか、理由もなく突然に雷が落ちた。それまできげんよく話をしていた村松さんが、ちょっと奥へはいったかと思ったら、奥さんに大きな声でどなっている。おや、と思っているうちに、足音荒く戻って来て「貴様がいるから仕事ができない。さっさと帰れ」ほうほうの体で逃げ出しながら、はあん、先生のいわれたのはこれだな、とわかった次第だった。しかし、次にこわごわ出かけて行くと、もうケロっとしている。前通りの親切なおじさんである。それでまた安心していると、何年目かにガラガラピシャッと来る。災害は忘れたころに来る。天災だと思ってあきらめることにしたら、気にならなくなった。

 とにかく、村松氏は変わり者だったが、フルート界の大恩人である。関東大震災の直前、まだ日本中にフルートを吹く人が十人ぐらいしかいないころに、彼は映画館(村松は活動写真館といった)の伴奏ボックスで三味線やなにかをひいたり、ポスターやペンキの絵看板を描いて得た金で材料を買い、工具をそろえて、一年に一本売れるか、二年に一本売れるかわからないフルートを、夜中にコツコツ作り始めたのだから、よっぽどの変わり者である。楽器の工作にかけてはズブのしろうとがである。もっとも軍楽隊にいたころ、手先の器用さと考案の斬新さを認められて、楽器の修理係にされ、砲車に引きつぶされたチューバを丸太でこじって直したり、折れたクラリネットを水道のパイプでつないだりした話は聞いたことがあるが、工作の知識はその程度だったらしい。
 第一号はどんな楽器ができあがったのやら知るよしもないが、作り始めてから十年間はひどい苦労をしたらしい。しかし、この最初の十年間で、フルート吹きの数もおいおいふえて製品も売れるようになり、量こそ少なかったが、村松フルートは音響的にも、また工作上も大体完成したらしい。十字屋や日管とも取り引きができ、岡村雅雄氏が主宰する東京フルート・クラブも誕生して、フルートはますます盛んになりつつあった。

 工作の手順が決まり、工員を何人か使うようになって、名声が上がってきても彼は研究をやめなかった。実に研究心の強い男である。それは楽器構造上のこともあり、工作過程のこともあった。戦後フルートは、爆発的に盛んになり、需要も急に増加した。村松フルートもアメリカに輸出され、月産は七十本から百本、ほとんど彼の手を経ないでもできあがるようになった。昭和三十一年四月、村松フルート一万本作成記念を上野精養軒で催し、約六百人のフルート吹きや関係者が集まった。それ以来、新聞やテレビにたびたび出るようになり、その後の数年が彼にとっていちばんいい時代だったと思う。彼と最後に会った時、それは亡くなる数日前だったが、「これでようやく楽ができる。僕が作らないでも材料さえ渡していれば笛ができるようになったよ。これからは僕は僕で、いい笛だけを作る研究をやっていけばいいんだ。なんでもオートメーションの時代だからね。もっとも財布は自然にふくれないから困るがね、あはは…」と言っていたが、村松氏の死後も、村松フルートが変わらずにできることはほんとうによかったと思う。

 通夜の時、大勢のフルート吹きが集まった席上、毎年六月五日の命日を雷忌として盛大な笛祭りをしようとしうことになり、衆議一決した。なんとも惜しい男に死なれたものだ。葬儀は彼の菩提寺である牛込の宗圓寺で行われ、岡村雅雄氏の指揮でN響の吉田雅夫氏をはじめ、数十人でフルート合奏をささげた。まことにフルートに生き、フルートに死んだ彼にふさわしい葬儀であった。
(昭和三十五年六月二六日 日本経済新聞より転載)