笛作り三十年

第9回

私の笛が商品としてスタートした。

 私が笛作りを志してから五年目、七十本台の笛を作っていた頃の或る朝、玄関先に二枚のはがきが放り込まれた。一通は銀座の老舗十字屋楽器店から、他の一通は日本管楽器会社からで、共にフリュートについて相談があるから来て呉れと書いてあった。私は予め用件は想像出来た。そしてすぐ出掛けることにした。

私は戦時中、鈴木ヴァイオリンがフリュートを作り始める時、日響の辻井氏を通じて、相談がしたいから銀座の店まで来てくれと再三言伝があったが、相談がある方が来る可きで、私の方から出向き度くはなかった。自尊心が許さない。それで遂に一度も逢わずに終わった。現在、保安隊の音楽隊からも呼出しを受けているが、先方から一度来る迄は行かない。こちらから出向いて註文を受けることと、先方から依頼に来る事との距離を私はハッキリ区別する男なのだ。

 しかし、その時は欣喜雀躍二葉のはがきを懐に銀座目がけてスッ飛んだものだ。ところが早すぎた。
 まだ仕入部の薄井氏が出勤前だ。そこで十字屋前から青バスに乗って日管(日管は上野と浅草との中間に在った)へ行った。日管で、はがきの差出人中島氏が一時間も経たなければ来ないと云う。今考えると子供らしく血迷ったものだ。青バスに腰を掛けて銀座、上野間を右往左往している自分の姿を人ごとの如く今はほほ笑ましく想い出す事が出来る。二度青バスに乗って十字屋へ行き着くと、やっと薄井氏に逢う事ができた。掛引きなしの交渉。こっちの希望を全部聞き入れて商談は成立。定価五十五円也で売出すことになった。毎回五十本宛の発註、それと同時に半額前渡しと云う約束なのだ。私は初めての大量生産なので相当の覚悟と計画が必要だった。まとまった金を持って其の足で材料屋と工具屋へかけ付けたものだ。日管の事はすっかり忘却。翌日から錺(かざり)工 石井兄弟と、手伝いとして東洋音楽学校出身の藤村氏(当時フリュートの練習をしていた)を依頼、製作に取り掛かった。最初に出来た六本のフリュートが銀座のウィンドーに飾られた。私の笛が商品としてのスタートであった。うれしかったけれど反響が心配だった。それでも六本のフリュートは七日目に全部売り切れてしまった。毎日催促を受ける忙しさが長い間続き、五十本宛の註文が三回繰返された。その間、非常に大きな理解を以って私を育ててくれたのは、支配人倉田氏であった。私を笛作りに仕立ててくれた恩人倉田氏に心からを感謝をしている。