笛作り三十年

第3回

酷評されたことが、
製品の向上に役立った。

 私は、最も多くの報酬と、笛を作るための多くの時間をつかむ仕事を選ばなければならなかった。そして映画館入りをした。(当時は、まだトーキーではなく、幾人かの人間が画面の前のボックスで伴奏音楽をやっていた)映画館で働き乍ら、最初の一本の笛を完成するのに六ヶ月(延一千時間)を費やした。その笛をボックスで吹いたら、館の従業員全部がボックスを覗きに来たものだ。そして其の後是非フリュートを吹いてくれと言われた。それ程フリュートの音は珍しい時代であった。

その笛は戸山学校へ持って行き吹き比べてもらい、某管楽器工場へ持って行った。それは、正しい批評を得たかったからだが、その工場では幹部連中が事務所へ集まって見てくれたが、音に関しては一言も言わず、工作上の表面的な技巧に就いてばかり酷評した。私は顔から火の出るような思いをした。曰く、ヤスリ目が残っているから駄目だ、溶接がまずい、と……。私にはそれは充分解っていた。然しそれは第二の目標で、それよりも音程と音質に重きをおいて作った。−−後にフリュートを量産するようになってから、この酷評が大いに役立ち感謝したが−−十年程の間、私は鑢を持つ度に、多くの人達の前で、ヤスリ仕上りのまずいことを言われたのを必ず思い浮かべた。其の後、多量に笛を作るようになった或る時、ヤスリ仕上げの加工専門家に注文する為、見本を削って持って行った。主人はしばらく私の削った見本に見入っていたが、これは余程達者な人に削らせましたね、と言うのであった。この時、私は某楽器会社で顔から火の出るような酷評を受けた事を思い出した。
 私は、良い笛を作るために、なお多くの金をつかまなければならなかった。そこで、映画館内でペンキ看板を描く事を引受け、毎週六尺四方の看板を十数枚描いた。音楽をやる合間の五分間でも利用したこの収入は、音楽で受ける報酬の数倍になった。金を手にした翌朝は機械屋へ走って機械を入手した。考えればその頃買い集めた機械類は、実際には殆ど役立たなかった。それは素人の悲しさで、笛作りに利用できると考えたものが誤りであった場合が多かったのだ。

今日でも、機械を手に入れて楽しむ癖が抜け切れないでいる。この癖が最近まで私の事業の上で、経営面に重大な悪い結果をもたらした。